「頑張ってる」

何処まですることを「頑張ってる」と言うのだろう。

 

前に友人から言われた「上手いカラオケが聞きたいんじゃないんだよ」は

僕に良い影響と悪い影響とを未だに与え続けている。

あれは、「上手いカラオケでは唄ではない、では

上手いカラオケと唄の違いは何なのだろうか」と考え始める切っ掛けになった。

けれども、僕はあの時、「頑張っていない」と言われている気が強くして、

あの言葉を一日に一度、多い時には数えきれない回数で思い出す度に、

自罰的になる。そうして、中学生時代に言われた、

「もっと練習してこいよ」に繋がっていく。

 

僕は自分が改めようと常々考えていることや、

実際に改めている最中のことについて外部から指摘を受けると、

仮に相手がその言を引っ込めたとしても「現実」として強く認識して、

自閉されて、言われたことを何度も呟き、怖ろしさに苛まれる。

あいつは分かっていない、といった風に思うことはない。

ただ、どういう相手がどういう場で発言したことかを客観的に並べて、

実際にはどれくらい的を射ている言葉なのか、理解の深度は、など、

真に受け過ぎないための思考プロセスも同時進行で成されてはいる。

それでも、自意識に脅迫される。

もっと痛めつけなければ頑張ったことにはならないのだ、と。

 

一昨日だかに、

リラックスしなければ発声は悪くなる一方であることに気が付いた。

それで、上手くいっていようがいまいが、その日に出来ることをすることが

僕にとっての「頑張ってる」であって、

「頑張ってる」かどうかは、人には決して正しく測定されやしないのだと思った。

頑張ってないのに評価された時にむかっ腹が立つのはそういうことだ。

まあ、頑張ってることがそのまま評価されることはないのだけれど。

 

「上手いカラオケが聞きたいんじゃないんだよ」に厭な気持ちを覚えたのは、

「僕は頑張っても上手いカラオケなんだよ」という反論を自ら伏せたからだし、

「もっと練習してこいよ」に複雑な心境になったのは、

「具合が悪い時の精一杯は精一杯には映り得ない」人の現実を

肉親以外から明確に突き付けられた最初だったからだ。

 

頑張ったことが頑張ったこととして肯かれる経験の必要性。

僕は何をしていても、頑張っている自分を見つけられない。

耐えている時も積み重ねている時も、それを辞める自分に向かっている視線。

そうしたものを、その辺に転がしておく自分に変わっていくこと。

けれど、鈍くなるのは厭だということ。