過剰だ、でも(+αで済むことか?)

「まだ」判らない。僕はいつでも、僕自身を暫定的状態でキープする。

いや、キープは出来ていないか。

第一、より沢山のサンプルへと変じていかないと。

 

メールの文面も表現なら、口頭での軽口も表現。

きっと、物語を鑑賞したり創作したりする際の、

「シリアスかギャグが好き」と類似する特徴が僕の本質には混在している。

今は過剰適応なしにはギャグに走れないけれど、

その内、体力面でも軽やかに笑わせられるようになれたら良い、

そんな風に思っている気もしている。

 

人がどうでも良いことと、人の反応に無関心であること、

僕は別の意味合いとして区分しては使い分けている。

「相手の行動如何で自分の決定が覆されることはない」から、

人はどうでも良い。

「人は自分を映す鏡であり、客観で以て僕を裁いてくれる」から、

人の反応には物凄く関心がある。

僕は何にでもなれる、でも、それは過程でしかない。

最終形のソレを求めて止まないと自身に暗示して、

ソレになるためになら手段を選ばない。

そうした感性の最たるところが、好きなキャラクターに現れている。

藤崎竜封神演義太公望と、MWの結城美知夫。

行く道は正反対でも、両者の行動基準は割りかしと似ていると思っている。

 

話は前後する。皆を笑わせようとは僕はしない、また、望まない。

僕が「良い」と思った鋭敏な肌を持った人の感覚器官を信頼しては、

その人を笑わせたり、こちらの予想したリアクションをとったりして、

好しとしている。そうなんじゃないか、と、さっき思い至った。

それも過剰適応に物を言わせてやっているけれど、

疲れる未来以外への嫌悪感はない。

僕は自分が道化を演じることに何の抵抗もないし、

やはり迎え入れる観客によって、きっと真っ当に愉しめているから。

面白くない、徒労しかないのは、

僕がその観客の反応に何の価値も見出していないケースだ。

そういう相手の前で笑いがとれたところで創作行為には値しない、

それはただの工房化現象のようだ。技術者でもなくて、

設計図を元に決まったパーツと化すだけの役

(だからこそ工房で働ける人のことを凄いと思うけれど。

 職場に関して言えば、本来は「それだけをすれば良い場所」

 ではないのであろうことにも何となく思いを馳せはする)。

役不足に感じて不満なのではなくて、単に、

例えば僕はプラモデルを組むのが好きになれそうになかった、

後、大判のジグソーパズルを飾りたい一心で三作品組んだけれど、

現在鑑賞出来る以外の出力ではあれらの努力は報われていない。

趣味に使える筈の時間を割いてまでやった苦痛な思い出の一つだ。

僕は苦行をする為に生きている節はあっても、

それそのもの好きな訳でもなければ、

完成形が知れているものの未来にも関心はない。感動も、達成感も。

 

ええと、プラスアルファ。忘れた。

思い出せたらここに追記する。

 

(追記)

直後、引っくり返したお菓子箱の底からみたいにあっさりと落ちてきた。

僕、切り替えがかなり下手だ。

「どうでも良いこと」が多いから甘く見積もり過ぎていた。

切り替え「も」じゃない、「が」、「かなり」。

昨日も今日も、短時間(四十分~一時間程度)の通話を挟んだら

意識の換気が自動的に行われて、くちゃくちゃと理論付けて

「大丈夫だ」と言い聞かせ言い聞かせやり始めようとする時よりも、

自分が意識的に禁じていること(※過食以外の。あれは麻酔でしかない)、

具体的には、音楽の出来る時間帯に「音楽以外の好奇心を満たすこと」を

短時間だけでもやって「みれば」、頭上の雲や自生思考がさっと退いてくれる。

この「やってみる」は、僕がこの10年で自分には向いていなかった方法論の

「まあ良いか」に似ているようでいて、案外と違う顔立ちをしていた。

同質に処するべきだと考えがちだったのだけれど、引いては音楽の為になる上に、

「まあ良いか」と違って非常に行動的側面の強いことなんだ。

僕は行動していたい。良いんじゃないかな。

 

そう。「良いんじゃないかな」で済ませること。

これは昨夜、父に打ち明けた、

「僕は貴方と巻き込み行為をしているのではないか」という話。

建設的ニュアンスのことでしか行為をしなかったから思い当たらなかった、

でも、ふと考えてみたら、これは母が強迫性障害を原因とする質問を

電話を使ってまで父に行っているのと同様の行為じゃないか、って。

唯、僕はこの行為を習慣にした時期や動機が自分の中で判然としていた上に、

その少し前にカウンセラーから「私だけじゃ足りない?」と

尋ねられたこともあって(これは他の要素も多分に含んでいたから、

悪い意味でカモフラージュされてその場では察せなかった)、

丁度良いタイミングで気付きを得たといった感じ。

話し始め、父は半信半疑で僕の言い分を聞いていた、でも話半ば頃には

「巻き込みなのかもしれないな」と同意してくれた。

そして、このやり取り自体はノーカンということにして、昨夜から僕は

彼に質問することを辞めることにした。

自分の中で同調してもらえるであろう確信のある質問を。

僕は昨年に性格や感性を取り戻したばかりだから、自身の客観性、主体性、

協調性の有無さを人の数十倍は疑っていた。だから、

僕が一番信頼している大人である彼に丸付けを頼んでは、

11月末から大掴みで常に100点をとっていた。

もう自分の中にある一般常識を信じてやっても良い頃合い、

却って慎重だった程かもしれない。

 

とか。詰めて書き過ぎたら具合がまた悪くなってきた。

備忘録なんだから肩肘張らずにって思うのに。

でもカウンセリングで使いたいし、伝え零しは多いし、し、じゃない、以上。

 

(更に追記)

空気を読む。この表現はいつ頃から巷の馴染みになったのだろう。

「顔色」を「読む」ならまだ、しかし、

空気は「読む」と表す程には時間を掛けて視るものじゃないように思う。

発達障害等の先天的原因が当人にあるのなら話は別だけれど、

そんなものには適当に、見たままに、好きなように対応すれば良いだろう。

そこで軋轢や齟齬が生じて初めて問題となるのであって、

その問題であっても、当事者の内何れかが問題視出来ないようであれば、

関係を終えるだけで解決出来る極めてシンプルなもの。

………こういうの、良いね。別に誰に説明を求められている訳でもない、

僕が前提を分かっていれば。忘れそうな特殊な思考回路を経た時にだけ書こう。

 

率直に、空気を読めという内面化の強要が一番空気を読めていません。

でもそんなことも最早、問題じゃない。

読むなんてまどろっこしい言葉を使うその前に

手前でよくよくその七面倒臭さを考えてみろ、そんな仮想喧嘩。

 

仮想喧嘩、最近してなかったな。

ほんと俺は読まない奴だ、と(珍しく)熟、思ったので。やった。