見縊っていた

取り押さえられた時にも頭の隅で、

意外とこの人は力がないな、とか、

今自分がやっているこれって何処まで演技じゃないのだろう、とか、

あれくらい取り乱している風でも自己観察をしていられる自分。

それから、

頭から全身へと拡がっていく馴染みの悪感情を七割程現象化させて、

非現実的なオーケーシーンを一発で演りきれる、完璧で、過剰な自分を。

泣きながら嗤う、過呼吸になる、

急に自分にしか分かり得ない例えを引っ張り出す、

中学の時にやったあれと同類。

同じように父は泣き出しそうになる。違ったのは、

僕がそれすら怒りのままに禁じたこと。

十時間殆ど泣いていた所為で目が開かない。

夜食として夕飯を摂るべく、ギターを弾く契約と共に起き上がった。

 

日中、久しく到来していなかった脳内自動再生が、

前の記事を録画したテープで行われて、ほっとしている。

あれが無いと無感情が過ぎて、要所でセットしてやらなければいけなくなる。

そして、嘘で物を作る気は中々起こらない。

時間が愛着だとこれも前の記事で書いたが、歌い方にせよ使う楽器にせよ、

僕という人間には、愛着を持てるものとの縁を重視してそれを使い込み、

もっと良い選択肢がある場面においても、「でもこいつが好きだから」の一言で

不釣合いも不細工さも最良の要素に数えて採る、

そういう物の選び方が合っているのではないか。そう思い付いたところだ。

 

このままずっと、不完全性と自分の拘りとを、

終点に着くまで大事に抱えて行きたい。

揺られていたい。