自分の怖さ

好きな人を虐めたいという欲求が幼さと見做されがちである訳は、主に、

「だって付き合いたいんでしょう?」とか、

「だって長く関係を維持したいよね?」とか、

そういう前提を万人共通の観念としているからじゃないかと思う。

対して僕は、本音が許される場であれば、

「好きだからってどうして付き合いたいの?」、

「好きなら関係を維持したいものなの?」、と、言ってしまう。

僕は「付き合いたくない」し、「関係を維持したいとは感じない」。

感じられないことはないが、

そういうルールの下で事を成さなくてはならない時に、

頼まれたり必要視したりした場合に、そう感じるように努めるだけのことだ。

本心からじゃない。

嘘だ、と言って、僕のこれまでの行動を根拠にされても、

何れにも別に理由があって、そこには一切の邪推が通用しないだろう。

 

そういう自分を自覚していく度に、

こんな人間は自分を除いて見たことがないから、実在を疑ってしまう。

で、ふと思ったんだ。

これだけヒトに頓着の無い人間を引き止めたり縛ったりするために、

誰かは、何を持っている必要があるのだろう、って。

それはきっと、「物」に違いない。

けれども、凡そヒトというものは、人間性に魅力を見出してもらいたいと

意識的、或いは無意識的に考えてしまうもので、

特定の人間を釣るには、どうしたって「物」に頼ることが出来ない。

でも、では、僕は。その人にとっての僕の魅力が「性格」だろうが

「物」だろうがどちらでも構わない。敢えて言わせてもらえば「物」ですらある。

「性格」なんて人生に付随するものでしかないのだから。

そこまで断じてしまうことが一つ、僕という人間の怖さなのかもしれない。

他の怖さについては、今のところ、自分では怖さとして共感できない。

・・・先に言葉を掛けた怖さにせよ、あくまでも自分は

全ての人間を繋いでおきたいとは思えないので、結局は怖く思えない。

例外は「死」だ。これについては良いか、置いておく。

 

ある種の可能性があるのは唯一、

離れたくないタイミングで、居て当然だった誰かが離れた時。

後悔が襲ってきたなら、僕は認識を塗り替えることが出来るかもしれない。

でも、居て当然の人は家族しかいない。

大事な人とそうやって別れたことはあったけれど、

自然消滅でも自分が悪いのでもなかったせいか、その結末だけがただ、

すとんと降りてきた。抗いもしなかった。必要もなかった。

また、自分のせいで、居て当然だった人との関係が終わったことがない。

思い通りにいかなかった人間関係が、ではなくて、

その人が去ってしまうこと自体が惜しいと思えたら、

人として少しは可愛げがあるんだけどな。

などと言ってみたい気持ちもまた、本気じゃない。

人間らしい自分は何処へ行ったんだろう。

 

否、それすらも本懐の疑問ではない。正しくは、

「こんなことを考えては議題とするカウンセリングの出口が知りたい」。

これに尽きる。