ファンとは違う「何か」

待ち時間中。暇だから書く。

 

「宇宙飛行士への手紙」を聴くと、藤原さんという人は、

相変わらずに僕が地球上で唯一掛け値なしに大好きな人なんだと思う。

否、相変わらずに僕という人間は

藤原さんを好きなんだと改めて認識出来る、というところなのかな。

彼は僕や旧来のファンが好むような表現を出来なくなったのではなくて、

そこを抜け出して作った音楽をも

自分の音楽として愛することが出来るように変化したのではないかと考えている。

「終わった」んじゃなくて。じゃなければこの楽曲は仕上がらなかった。

オリジナルは未聴なんだけど、「ディアマン」も僕は好きになりそうだ。

彼はこういう歌詞を書く時、そういうメロディを作る。

 

「宇宙飛行士への手紙」を注意深く聴き取っている。

どんな作りをしているか

(前までの僕にはこんなに色んな音が聴こえたっけ、とか)。

どんな歌い方をしているか(自分で記憶していたよりもあっさりだ、とか)。

自分なりの完成形とどれくらいに距離があるのか

(想定する伴奏は?、そのままの伴奏なら自分の歌い方は強すぎる?、とか)。

練習曲としながらも、自分なりに完成させようと

オケ込みでどうアレンジしようかを考えながら聴くのは初めてだ。

今まではアカペラで完成だった。

また、練習ということで完成を狙っていなかった。

でも、それを意識して行う練習は、

初期に唄声の基礎を築きながら先走って心掛けていたこと、

その行為に近いんじゃないか。そして、こういう聴き方とは別に、

単純に曲に酔っ払うように傾聴していくと、やはり藤原さんは、

僕にとって音楽的な父親のような人なのだと。赤子が親の胸で眠るように、

衣服から伝わる温かさにぬくぬくして眠くなる、そんな時間に包まれる。

 

自分が風呂場で苦しみながら歌っていた、彼らの楽曲のいくつかを流している。

ダイヤモンドの出だしから口を引き結んだ。

耐えながら聴かなくちゃいられないのも変わらないんだな。僕は変わらない。

目の奥が乾く。奥で眩しさがチカチカする。

自分はアレで、アレを追い掛けていなくちゃ生きていられなくて、

なれるかなれないかなんて知ったこっちゃないって、今でも疑う余地がない。

 楽曲、停止。

 

この間読んだコラムの中に、

「ファンになってしまうとその人とは対等に交流できない」

といった趣旨のことが書いてあった。僕は藤原さんを始め

BUMP OF CHICKENのメンバーと交流したいとは殆ど思わない。

それを抜きにしても、そもそも自分は彼らのファンなのだろうか。

David Bowieが言ったような、ミュージシャンをシャーマンとして崇めて

ライブで盛り上がること、それがファンなのだとしたら、

僕は寧ろライブには怖くて行けない。感じ入って死んでしまう。

でも、それだけなら「過剰なファン」というだけの話だ。

同一視も「ファン」だ。何だろう、ある種の仲間なのだ。

生きるための激情だ。「ああなりたい」という目標ではなくて、

「ああしていけば激情を開放できるんだ」っていう先輩。

やっぱり藤原さんは、僕の「音楽的なお父さん」だ。