自分が物を作る時の話と、他人が重視する点と、そのズレと

細々としたより正確な分析は自己の内では着々と済んでいっているものの、

それを一つ残らずその通りに記載することは自分にとって無意味だから

(だって自分ではよく解っている)、敢えて主観を重視した

いい加減なセンテンスで、適当に、不適当に書いていく。

そう断って始める予定だったんだけど。

 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RAqag_FfNVVl8AXzAbGvR7?page=1&qid=11103092426

これだけの経験をしたら、「男は皆、馬鹿」と思ってしまうのも無理は無い。

僕は性別に関わらないで、

「~~~に生まれてきた奴は馬鹿」といった言葉が大嫌いだ。

このURL中の話題にさえ、女性であっても、

赤ん坊と無事に出会えたことしかなかったり、全くの自分本位に中絶したりしか

したことがなければ、URL先の質問者、回答者達の気持ちなど分からないと思う。

もっと言わせてもらえば、

回答者の内の何名かは質問者に対して非道いことをしている

(自分には彼女らの気持ちはまるで分からないが、

そうではないか、とは感じる)。それにしても、

質問者及びベストアンサーの夫は頭が可笑しいな。

共感能力が乏しいと誤った多数派像を語りやすくなるとは言えど、

妻を心から愛しているのなら思っても口には出来ないだろう。

愛していないとしても、相手を傷付けたいのでもなければ言えない。

人らしさとは何なのだろう。

 

このURLに辿り着く切欠が無脳症だった。

無脳症を取り扱う俗なページでよく用いられる、

無脳症の赤ん坊を沢山の人間が担いでいる画像を久し振りに見て、

この画像中の赤ん坊を通して感じられる空虚さに改めて哀しみを覚えた。

無脳症だからという以前に、

赤ん坊には自分が何をされているのかが判断出来ない。

それが有り有りと(状況が判る側による思い込みで)

赤ん坊の佇まいに象徴されていて、哀しい。

その佇まいとは、何処か遠くを見ている瞳、無造作に無機的にしゃんとした姿勢、

感情はあっても、行為に影響を受ける心が未成熟であるが故の純粋さ。

きっと、そういったもの。

 

図らずもガス抜きになった。と言うのも昨日、

久し振りに嫌いな種類の憔悴をした。

原因を親父に愚痴たら、

「そりゃ、(相手のやり口が)ずるいよな」と応じられて、

そう、ずるいんだよ、と思って。

「袋小路に追い詰めてんじゃん」って親父の捉え方にしても、

僕からすれば大げさだけど、そういうやり方だよねって。現に疲れちゃったし。

親父と話す十分前まで寝ていて、その夢が本当に最悪で、

もしその夢を誘発したのが、ああされた実感なのだとしたら、

親父の言うように、今後はそういう話になった時点で回避する必要がある。

ていうか、やることが控えていたら、現行の僕でも話を切っていた。

それでも眠いところを押してはいたが。

二時間強も舌打ちを堪えて付き合うことはない。

 

当初の話をする。

僕は凡ての作品において、不完全さを最重視している。

僕にとって不完全は愛しく、美しく、泥臭く、大変に面白い。

それは作品における完成度とか作り手の伸びしろとかとは全く異なる評価点だ。

でも、もしかするとそういう感性というのは、

物を実際に作る人間にしか宿らないものなのかもしれない。

自分で思っている以上にデリケートな着眼点とでも言うのか。

鑑賞行為を相当に愛好して、語ることにも不自由していない人種にも

通用しない話だとは想像していなかった。それくらいにデリケートらしい。

 

不完全は未完成とは少し違う。角度によっては、大きく異なってくる。

で、大きく異なる時というのは、タイトルに記したズレが生じた時。

とは言っても、ズレた相手にも「これは良い不完全さだ」って作品は

多分に存在しているだろう。だけれど、僕が歓迎する不完全さと比べたら

あまりにストライクゾーンが狭い。

そもそも作り手であってもそういう人はいるが、彼らよりも狭いというのが体感。

そんな僕にも「これは未完成であって

自分が求める不完全さじゃない」体裁をとった何かは少なくない。

でもそれは、自分がその作品の作者だとしたら、という前提に立った話であって、

観客としての僕がそう言って不満を漏らしている訳ではない。

そこを混同される、もしくは自分でしてしまう

(≒作り手の誰しもがこの感性を持っている、

もしくは、理解くらいなら出来ると思う)と、

少し前に友人と交わされたような遠回りな議論に向かっていくんだけど、

ただ僕は、純粋な「愉しむだけの」観客に回ることは絶対に出来ない人間で、

自分がこいつを作るとしたらどうなるのかを常に考慮しているから、

雑感、完璧主義と誤解されても仕様がない。

誤解されても自分には別段支障はないので、どうでも良いとさえ考えている。

 

閑話休題。親父に愚痴た話が正にこのことを巡るあれそれで、

僕が相手の感性について思ったのは、その人は

「今は未完成だけどどんどん完成していくに違いない」という

全く見当違いな期待を僕の歌唱に抱いてしまっていること。

その人は「巧いかどうかは考慮しない」とよく言う、けれども、

僕からすれば彼が求めていることもまた巧さで。

過去に僕の歌唱で完成された(彼の言では「良かった」)ものを聴いたとして

挙げられた唄名から、僕は、

「嗚呼、でもあの歌い方ならいつでも出来るんだよ」と思った。

実際、出来るか出来ないかで答えれば出来るのは事実だ。

但し、僕がその完成度を示せる唄のバリエーションはあまりに少ない。

そこが僕にとっての問題点。彼は、その話が切り出されるまでは、

あの瞬間にだけ完成したと認めていたみたいで、それは彼の、

僕からはズレた感性で言えば正解なのだけれど、

僕の感性では不正解。その証拠に、クォリティーをあそこに持っていくために、

彼は、僕がより良くなっていかなくてはならないと捉えていた。

それこそが、

「今は未完成だけどどんどん完成していくに違いない」という、

僕からすれば、引っ叩くか、

ドタマ引っ掴んで何度も頭突きを食らわせたくなる程には

間違えた解釈なのだ。

勘違いから生じた憐れみを掛けられているようなうざっとさ。

そうではなくて、僕という人間は、

あの唄のように自分の愛する不完全さを存分に発揮出来る唄と出逢ったり、

それを作ったりしなければならない。

これは、僕が最近に不安がっている

「共感の叶う唄がごっそり減ってしまった」問題に直接関与することだ。

これ以前にも、共感は出来ないが歌いたい曲に関しては、

その唄になりきる、憑依することで歌ってきた。

でも、それが9割より多くの唄に必要な姿勢だとしたら、

僕にとっての唄は「演技」に変質してしまう。

僕は自分の魂を開放するために唄を始めて、未だ縋っているというのに。

 

早い話が、

・自分に近い唄を思い出す、或いは探し出す

・また一音一音に拘って唄を練習する

この二点が当座の目標で、

・より多くの唄を製作し、楽曲として完成させる

この一点が、音楽における僕の未来永劫のテーマなんだ。

そして、そういうことで正しいのだろうと思わせてくれた人の言葉は、

僕と同じように、歌わなくては生きてはいけない人のものだった。

その人は僕よりずっと巧くて、

歌わない人達からもその良さを理解され易いスタイルを持っている。

その上で、僕が目指すものを、その人もまた目指しているから、

僕の好む不完全さに共感してくれる。

そういう人の言葉しか僕は必要としていない。

それは自分にとって都合の良い意見でしかない、なんてことは全くない。

だけれど、そんなことは説明したって理解されることは難しいから、

こんなところで落とすのが適当というものだろう。

 

因みに、どうしてこれしきの話で僕が憔悴したのか。それは、

相手とのズレを早い段階でそれと悟って、つまりはこういうことだよね、

と結論を早めた僕に対して、尋常じゃなく酔っ払っていた相手が、

こちらが要約したままの考えをちんたらと長時間に渡って語ってきたから。

しかも、「分かってるとは思う、けど僕は聴いてほしいんだ!」とか言いながら。

面白い話で絡まれる分には笑えるんだけど、

詰まらないどころか不本意な勘違いを延々垂れ流されたら、そりゃ疲れます。