総括

大概の人間は、自分がどういう人間であるかを考える時、

自分が思う通りの自分像を語るのだろう。

俺は違う。

人が自分をどう見たのかが総てだ。

その総てが自分であることを否定しない。

だが丸々、肯定することも少ない。

自己は確立して不動の個となるにせよ、

対する人が別であれば、同じ自己でも

全くの別人に捉えられる可能性を秘めている。

それ故に俺は否まない。拒まない。

その人に映し出された俺もまた俺であることを受け容れよう。

 

とかね。

硬質な文体になったのは、人と今の今まで気さくに話していたから。

会話が終わるとふっと生粋の自分に帰ってくる。

推察するに、俺にも俺なりの俺が、俺の中にいるのだろう。

でも、この俺自身のままでは親しい友人にも話が通じない。

だから余所行きの服に着替えてパーティーを開催せざるを得ない。

過剰適応。先生の、「それは貴方が手にした能力でもある」

という言葉の意味が分かり掛けている。

生身の自分を外に晒してはいけない自覚とその実感を経験から知っているから、

俺は過剰適応をすることで人との会話を乗り越えるんだ。

これが俺の方法なんだ。無理をして自然体でいる必要はない。

矛盾しているようでいて、最もしっくりくる表現。

無理をして自然体でいる必要はない。

 

俺の過剰適応を、その単語自体は知らなくとも、

長年の付き合いの友人は本能的に察している。

そこに俺が甘えて尚、成り立っている関係において、

彼らに生かされているという心さえ忘れなければ、

自然体ではない俺でも友人として迎えられているんだ。

 

それに、最近では自分が本当に考えていることを

なるべく正確に伝えるべく言葉を尽くすようになってきている。

自然体ではなくても、本音を言うことが出来る。

自分の弱味を隠さないでいられる。

 

日常会話に興味を持てないことは、仕方がないのかもしれない。

興味があるから好むのだ。でも俺にとってはどうでも良い。

それでもそういう話題を自ら選出することもあり、

また、相手から振られれば応じることも出来る。

「それで良いじゃないか」って。言ってもらえたら、すっと楽になった。

たった一人から言われたことで楽になれた。

いつもなら、何人もの人に同じ質問をして回っても更に悶々としている自分が。

きっと、その一言が欲しかったのだと思う。

 

これは内輪で話したことだけれど、

かの先生に協力を申請しようと思った理由が正確にはもう一つあった。

自己肯定感を養うためだ。

駄目出しもされるだろう、けれど一つでも褒められれば、

俺の脆い自信の礎になるかもしれない。その可能性に賭けたい。

自己の良い部分を見つけて縋りたい訳ではない。

0に0.1ずつ加えて、四分の一人前くらいにはなれる未来を臨みたい。

もう一度、自分の力で生きられるという当然のことを。普通のことを。

平凡な人生に、せめて憧れられるように。

 

(追記)

精神的に混乱している時には、何を言い聞かせてもらっても無駄だと悟った。

改めて応答内容を読み返してみると、あの時には体内に入ってこなかったものが、

今では言葉のままに心の底に届くようになっている。

自分はどうも、一言も発さずに自覚なく錯乱するみたいだ。

 

(追記2)

半ば私信になってしまうけれど、ここに書いておこうか。

何かを始める前にそれによって何を得られるのか、

何を失うことが「出来る」のかを前もって考慮することは大切だ。

でも、そればかりに終止して何処にも行けない、動けないのでは話にならない。

だから俺はやる。

それが無駄に終わろうが、人生そのものが不意になろうが、やる。

そもそも人生に意味などないと考えている。

偶々誰かがその人を愛することで、初めて意味は生じていく。

けれどその意味でさえ、自分自身の値打ちではない。

・・・小難しい表現をまた選んでしまったが、

所謂、やらない後悔よりやっての後悔ってのは、そういうことだろう。

常日頃から俺の相談に耳を傾けてくれる両親も、

間違いなくそう言ってくれる。

自分を信頼してくれる人を、俺も信頼している。

さて、鬼が出るか蛇が出るか。