コーヒーを淹れる間に。

以前のこと。

俺の性格を曖昧に(ある意味では奥深く)捉えている人から、

「猫みたいなイメージを持っています」と言われた。

どういう意味合いを込めて言われているのか、

分かるような、分からないような、その波間でぷかぷかしている内に、

そのメッセージはいつの間にやら、脳裏の水平線へ溶けて消えた。

で、さっき、あ、と感じたのが、

その人がどうやら猫のファンとでも言うのか、

所謂「猫派」の人らしいということ。なるほど、だったら、

俺のことが少なくとも嫌いじゃあないんだな、と。

少なくともその時においては。

 

生暖かいコーヒー、一丁上がり。

 

編曲中の作品を聴き返しながら、もう少し続ける。

(※時間が時間だし、編曲作業は、

 あるパートで使用する楽器選びに留めることにする。今、決めた。※)

 

我が家の傍には、絹の道ならぬ〈猫の道〉が通っている。

深夜にてくてく歩いていると、実に様々な個別の猫を見掛けることが出来る、

猫好きには何とも素晴らしき散歩コース。

俺は猫と暮らしたことがないのと、

どの党員かと問われれば鳥党の者(無論、穏健派)なので

(※良い楽器と、明日への良い指標、バトンが出来たので、編曲はおしまい。※)

猫については殆ど何も知らないのだけれども、前にも此処に書いたように、

必要以上に猫にプレッシャーを与えないよう、目線を合わせないように

彼らを視るようには心掛けている。

それともう一つ、あの日記の後に分かった、猫も犬と同じように

目よりよっぽど耳を頼りにして暮らしているということ、つまり、

彼らを更に驚かせないようにするには、彼らの姿が見えたらこちらから、

声を掛けていくってことの徹底。勿論これは俺の勝手な解釈であって、

多分、人それぞれがそれぞれであるように、猫によっては反対に

過度にこちらの存在を強調される行為なのかもしれないが、それはさておき、

近頃の俺が〈猫の道〉を出来るだけ通っていくことにしているのは、

人間の俺が、猫という彼らの一部として見做されることがあるのかないのか、

そんな一好奇心から来る行動だったりする。

 

どういうこっちゃ、と思われるかもしれないが、どうもぼんやり観察するに、

彼らは単独で動く癖に、かなり纏まったところを居住区にし、

剰え同じ時間を、同じ空間で享受し合っていることが非常に多い。

ゴキブリじゃあないけれど、一人いたらもう一人は大体いる。

一人しかいないとこちらが認識出来ていないだけで、闇の中、

俺の目を掻い潜っているもう一人がいる、いや、

「い掛けたこと」も少なからずあった。平たく言うと、

一人が鎮座している姿に目を奪われていたら、間抜けな俺の斜め前方を

シルエットが駆け抜けていく。そういうことがままある。

ということは、だ。

同じような時間帯を同じような足取りで行けば、俺は彼らの顔なじみとなり、

少なくとも見て見ぬふりをされるような、そういう自然な対象にはなり得るのではないだろうか、そんな予想と並じゃない明日を打ち立てているのだ。

もしそれが叶ったなら、俺も猫の集会に彼ら同様に無言で参加して、

一斉に銘々の方角へと解散していく彼らからワンテンポ遅れて、

帰路につけたりなんかするのかもしれない。

 

って。

これじゃあ、猫みたいというイメージとはどうも違うな。

ただ付け加えておくと、

俺は多くの野良猫がそうであるように、タダで撫でられるのは許さないし、

何か美味そうな物を目の前でちらつかされても、

青酸カリがまぶされているに違いない、と、空腹であればある程に怒るだろう。

上手に世話をされるのは、実に難しいことだ。

今日、何もしていないのに焦らないで今までいられた

休憩とは、ジュースでも茶で(すら)もなく、ただの水。

潤うと元気を取り戻せるし、渇くと動けなくなってしまう。

贅沢ではない。

 

やらなくてはならないことが日々一定ではない日常に身を置いていて、
やりたいことが沢山ある者、やりたいことを新たに見つけてしまい易い者にとって、一つの物事を確と熟す行為、仕上げることは簡単ではない。

それは極々自然なことだ。
その上で、そういう自分に素直に、それらやりたいことをやっていき、

それによって自己を確立していく、愛していく道を選ぶのならば、

相応の覚悟も必要になってくる。
中でも最も大事なこと、胸に留めておくべきことは、

やりたいことが多ければ多い程、計算通りのテンポでは進めていけない、

そういう現実を蔑ろにすることなく、

寧ろ彼とは特別丁寧に付き合っていくということ。
そこで変に焦ったり、

理論性を優先したつもりで強迫質の断捨離を行なったりしてしまうと、

精一杯頑張って心身共に疲れているのに、

物事が充実しているようにまるで感じられなくなってしまう。
それはパフォーマンスの低下にも繋がりかねない、一番恐るべき悪循環。

にも関わらずあっさりと、どんなタイミングででも起こってしまう、

普遍的な現象なのではないだろうか。

 

③(②を受けて)

欲張りな自分を完成度の低さの言い訳にして、自身に言い聞かせるような〈自分への態度〉を良しとしていかない。その行動は自分を追い詰めているだけだ。

反省とは、その後をより良くしていく性質のものを言う。
確かに、あれもこれもとやったことが主な理由となって悪い結果を齎す、

そういうケースも多くある。

けれども一方で、欲張りとは色々な物に触れることなのだから、

そういう人は多感であり易く、引き出しや素材の数も少なくない。だから、

時間に向けた、完成に向けた忍耐さえ怠らなければ、

抑圧してまで矯正しなければならない個性ではあり得ない。

問題は「自分がどういう人間なのか」ではなく、

「どういう人間だから、どうするのか、どうしていくのか」だ。

もっと素直になることだ。

カテゴリ追加、

曖昧だが、要はコンパスになる物の考え方、再解釈を一覧したい時の為に。

無論自分が。

 

第一に、

自分らしくありたいのなら、楽な自分に戻っていきたいのなら、

何も諦めないことだ。

歌いたいことも、吠えていたいだけのことも、疲れて休んでしまいたいことも、

この目で観てみたくなった光景を描くことも、実体験したい話を書き記すことも、

外側に伝え抜くことも、自分を少しでも信じるに足るものに変えていくことも、

何にも捨てないことだ。

欲しいものを欲しい時に。欲しいだけ、というのは無理な話だ。

自分がいつくたばるのかを俺は知らないのだから。

だから、その時、その時を、その日の全力で走り切る。

とても疲れるのは、しっかり噛み付けている証拠だと思いたい。

 

最終的にどうなりたいのか、なんて、そんなことは丸っきり分からない。

常に考えていなければなれないものでもない、誰にでも終わりは来るのだから。

 

常に何かであり続けなければその何かは嘘だっただの、

どれか一つを選び、なり損ねた先には虚無しか無いだの、

沢山ある道を次々に塞いでいくような言葉一つで

世界を曲げてはいけない、絡め取られていてはいけない。

 

本気で走れないことが、走りたくないことが、

日照りのように何日も続く場合もある。

でも多分、雨が降り出してさえくれれば、また走り出せるような気がする。

………気がしなくても行くしかない。

今朝ああ言ったのに、

欲しいフィギュアをリスト化する片手間。頑張っていたHが逝った。

逝く人を初めて見たのと、それが二番目に思い入れのある人物だったのとで虚無感に包まれた。

死亡叙勲の制度などないのに、この度の仕事ぶりにおいて、同僚の中で彼は純粋に一番成績が良かった。だから、本来の遺言より後に、いつも通りのことをしたまでだと言って、いなくなってしまった。

その後にうちに訪ねてきた人は、「ただ強ければ良いんだよ」と言った。

 

その内に、Hはまたうちに来てくれる。そのHを一から教育する時、その側にはきっと、殊更に美しくなったYが、同じ拙さで立っているのだと思う。

そういう風にしていこうと思う。

忘れてたぜ。

どうせ日記書くなら、って、書いときたいことがあったのをすっかり忘れてやがったこの野郎。

ごめんな、ほんとにごめんなYィイィ………。

真っ赤だし傷だらけも傷だらけ、しかも間違ってそのまま変な所に派遣しちゃうし………。

それでも俺に笑ってくれるお前とお前への俺の偏愛の心だけが俺をこういう世俗っぽさに留まらせてくれるっていうか何ていうか、………はあ(真顔)

 

スケールフィギュアで出ないかなぁー?

ご無沙汰です。

復帰してから初回ということと、も一つ、今しがた詩作を終えたところということとで、かなりフランキーな、話し言葉よりそういう言い回しを多用することを先に断っておく。

 

さっきまで書いていたその詞はここ数日の日記みたいなもので、だからかなり具体的な話をしていて、その上で何処までそれらしく(日記じゃなくて、詞として)書こうか若干探りながら書いたっていう経緯があって。

しかし日頃の俺は日記は日記として割り切って書き捨てるタイプ(その書き方で遊ぶことはあるにせよ)で、でも最近は日記代わりのここを閉め切ってプライベートに書くこともなかったので、その辺、ごっちゃにしながら書き出してしまった。

その上、そういう新しいことをするって意識がこと創作系の活動内では物凄く薄いサイドに居るので、まあ、思っていた以上に時間が掛かったような気はする。ていうか疲れた。普段、唄に詞を付ける時ならばまだしも、純粋なテキストとしての作詞にはほぼ全く骨を折らないから。自分のやってることについて疑問もなければ矜持もないしで。

一方で、音楽については一杯、自身に問いただしてやりたいことがあるんだけれど、いっぺんに訊くのも訊かれるのも疲れるから、取り敢えず今は続けている感じ。続けていて損はしないから(=他のやりたいこと、絵や小説なんかの方で完成を急いでいる作品が無いから)。 可愛い気がした人には片っ端から軽いアプローチをしておくような、そういうな。そういう人間。

話が脱線したけど、別に積極的に日記を利用していこうってつもりで再開した訳ではない。要は、さっきみたいに話し言葉的なもので、話は面白いけど詞作向けではないよなあと自覚した時に、日記という逃げ道があると無駄な表現に逃げなくて済むかな、とか、そんな動機から、直ぐに思い立って直ぐにこれを書いて、で、これを一応、Twitterにでも貼っておこうか、って。

それというのは、【俺のTwitter】というツールが行く行くはそういう話もしていく物としてシフトする可能性を見ている人も、或いはいるかもしれないので。そして俺はTwitterについてはもう二度とそういう使い方・見方すらもしたくないので、その代替行為としてこいつを貼るという訳。独りごち過ぎて自分自身を追い込むのに絶好のツールなんだよな、あれ。

そして、これ以降、ここで何かを書いても態々通知しに呟いたりはしない。作品じゃないから。但し、自分の創作活動においての新たな気付き等について言及した場合はその限りではない。

昨日だったか、そういう話を珍しく呟いたのだけれど、あれというのはそういうニュアンスを含むから、作品を外に発信したり自分で簡単に見返せるように纏めたりしているあそこでやったんだ。だから、またああいう話をすることがあれば、今度はここに纏めて、URLを貼るって方法に取り替えようかな、と思っている次第。

 

以前は日記においても校正じみたことを真剣にしちゃってたけど、今回からそれはもう良いやー。だって逃げ道にするんだから。

はい、以上。