ずるいよな
俺をそういう風に育てた癖に、自分達はそうは出来ないし、
するのが俺より大変だって態度で示すのは。ずりいだろうよ。
何が世間体だよ。だから俺はこう育ったんだ。
そんなもん気にしてたら何にも守れない、何の為にも戦えない。
自分の親の甲斐性のなさに情けなくて涙が出た。
そんなことも子供に出来ないのなら、
言葉にする段階でも曖昧にしてしまうのなら、いっそ一思いに棄ててしまえ。
それが出来ないのは世間体だろうがよ。
こうして俺は何の為に「こう」在るべきなのか。
これから先、俺は何を一番に想って生きていくのか。信じていくのか。
手本になるような人間は周りに居ない。遠いところから探していく他にない。
恋だとか友情だとか、そういう相手ではなくて、
何か別の―――きっと俺は俺みたいな人間が生きているのを、
間違いなくそこに在る姿を一度でも良いから臨みたいんだろう。
遠くから探して、直ぐ傍で、俺は俺ではないその人に俺を見たいんだ。
でなければ、このままでは俺は。
最早疲れているのかどうかも判らない
思考停止。去年はここであの泥沼へ自ら浸かっていったけれど、
もう厭だな。何にもならないから。休みながら何かをしていたいんだ。
………昨日しそびれた花への水遣りをしに行ってみる。
* * * * *
何もしていないのに体重が多めに減っていた。
薬の飲み方が変わったことを手掛かりに気が付けた、
少なく見積もっても「食べる〈回数〉」が2/3は減っている。
ヨーグルトにシュガーカットとレモン汁、バニラエッセンスを入れて
よく掻き混ぜれば、流動食のように楽に食べられることが判った。
栄養価は分らないが、脂肪と食物繊維少々、ビタミンCは確実に採れて、
ヨーグルト自体、疲労回復に効果があると聞いた覚えがあった。
何も作れない、食べたくない時にはこれを飲むように食べていきたい。
* * * * *
13時過ぎるまでは親父に家に居てくれと頼んだ。
どうなるか知れないが、ここで死んだらいけないと思って。
親父は割合にあっさりと「良いよ」と肯いてくれた。この感触が、
誰のことも信頼に値しないと思っていることを暗に示している。
俺は誰かと信頼を結びながら何かを熟したいと
何処かでは思っている気がしているのに。
少なくとも目の前にいるその人が、俺をそのようには
させまいとした人の内の一人だからだろう。
でも、数年ぶりに咲いたヤマユリに水を遣っていて判った。
その直ぐ傍に、来年か再来年には咲いてやろうと
青々と葉を伸ばす、また別のヤマユリ達がいた。
慌てて彼らにも水を遣った。水を遣りたかった。
俺にはそれらがヤマユリであって、今年中には咲けないことも、
遠くない同じ季節には咲くであろうことも、
咲くために日の光や雨を欲していることも、
全部が分かりきったことであったから。
それなら、俺だってそうなんだと思った。
自分なりの実を結ぶためには、
何もしていないことなんか、殆どなかったんだから。
足湯すげー! [追記 2017, 7.3]
先週の月曜から通して一週間、ずっと膝から下の怠さ(重い、もやもやする、そのせいで元気が出せない)が抜けなかったので遂にやってみた足湯。
初回であるこの度は、浴槽に季節的に丁度良い温度である39度の湯を、
怠い部位である膝から下全体が浸かりきれる水位で試してみたところ、
足を入れた瞬間に速攻で効いた。それから15分程、携帯でタイマーを掛けて、
借りた本を読みながらまったりと過ごした。
浴室内ということもあってその後患部に冷水を浴びせて、終わり。
すっかり良くなった上に全身の代謝が明らかに上がってくれて、体調が悪いと直ぐに寒くなる俺が二時間近く「暑い」を連呼(適度なエアコン除湿下で)。
その後、雪風の世話に関わることを行って色々な用事を熟し、
足湯後にも関わらず少し久し振りとなる真夜中の散歩タイムを長めにとって、
また用事を熟して、今に至る(これを記録することも用事の内)。
今後は、
①出来るだけ恒常的に、
睡眠モードに入る(眠剤をとる)手前で足湯の時間をとる。
②足湯する際の温度は42-45度が良いらしいので、次回からその間で試してみる。
③手近に、団扇、飲み物(でかいグラスに一杯)、タオル、
読む本(難しいのでも大丈夫そう)、携帯(タイマー兼辞書)を用意しておく。
また置く場所が浴室呂内なので、そこを事前に拭いておく。
④風呂桶だけ(=足だけ)でも効果があるそうなので、
余裕のある日にはそれも試してみる。
⇒やってみた。本格的にやった時が100%ならこれは10%程度の効能かと思いきや、その後暫く起きている場合、血行が改善されるので徐々に効いてくる風。一日の終わりにやっても良し、合間にリフレッシュ目的で気軽にやるも良し。
といった塩梅に、足湯を使い熟すことで生活の質を向上させていこうと思う。
【温度と水深について】(←追記)
・浴槽で行う場合は膝関節より7cmほど下の水量が良さそう
(衣服も濡れにくい)。
・「熱い」と感じたら冷水を追加して、耐えられるぎりぎり程度で作り直す。
ダメージはないし、15-20分後にはそれで温めになっている。
・42度でもかなり熱くて調節する羽目になったので、次回は41度で作ってみる。
さ、さ、さ、さ、
サクラ………っちゃんっ………!
吊り目じゃないのが中々に残念ではあるが、今まで出たNARUTOの女の子フィギュアの中では最強の造形だと思ったよ。くっそ可愛い。出来ればバトルver.みたいな、あの男気ある性格を反映したのも欲しいところだけど、それを出して頂く為にも出資。全く不本意ではない、だって既に可愛過ぎる………!
今年~来年の8月くらいまではフィギュアに大漁旗が立つな(年内に至っては既に立ってる)。
足りない分は一日バイトで稼ぐとかするとして、静的財政対策としては、
本は成る丈図書館で借りて読んで、面白いと思った作品に関してはamazonのお気に入りにストック、懐に余裕が出来次第、後日に購入することとしよう。「図書館にて読了済み」とかコメント欄に付け加えて、だな。
何かが欲しい訳じゃないんだ
そうしていたい、っていうだけで。
それを、思った形にしてみせたいっていうだけで。
それは、それも欲しいってことなんだろうか。
そうかもな。
充実していると感じていたいのだろう。
一日の狩りが上手くいって、それなりに美味い獲物にありつき、
その満腹感のままに眠って、また同じ朝を迎え、
それでも新しく目覚められるように、祈りながら歩いている。
そんな平穏な日々の傍で、時折、何か大きな力の気配を感じ取る。
それは〈それら〉であり、不明瞭でただただ大きくなってしまったもの達の群がり、そんなもののような気がしている。
それと対峙しなければならなくなった時。
その瞬間を恐れたことは唯の一度もないけれど、それを識れば識る程に、
耐え難い怒りが腹の底から湧いてきて、
自分でも自分が何を仕出かすのかまるで分からなくなることがある。
そしてそんな感覚をも少しも不自然には感じないで、今までずっと生きてきた。
確かに俺は生きてきた。
相手を間違えていただけのこと。
成果が何一つなかっただけのこと。
と、いう風に。
俺にとって4周目くらいのWOLF'S RAINが終わった。
このまま寝ると多分、また(そう、また。)とんでもなく強力な類の悪夢を見て
翌朝に泣き叫ぶはめになりそうなので、原点回帰も兼ねて、
BUMP OF CHICKENの楽曲を拝借・歌ってから
力尽きて終わらせる一日にしようと思う。
………今日そういえば歌ってなかったな。
鼻歌もなしにこの時間まで起きているなんて、本当に久し振りのことなんではないか。確かに今日は、羽を伸ばすつもりで過ごし出しはしたけど………。
唄、自分にとって歌うということは、
今、自覚している以上に「呼吸をすること」そのものであるようだ。
比喩なんかではなくて、声の合間に息をすることの方が大切というか、
それに釣られて出てきた声が、自分の中から選別された結果、みたいな。
上手く言えないけれど。
それじゃ。
物事をする程度の良し悪し、リスト化(随時更新)
具合が悪い今の内に、頑張って書き留めておく。
これが済んだら一旦、横になる。
【断わり】
「スケジュール通りに物を熟す」にしても色々あって、
確かに自分がしたいことの性質上、
日の高い内から始めて、終わらせなければならない行動というのがある。
それでも、それに着手する前にしたいことがあった時、
その瞬間の願望と堅実な計画のどちらを優先・選択するのかが、
俺の健康を維持するにあたって相当なウェイトを占めている。
それでそれをしくじってしまったから、今身体を動かすこともままならない、
文章化するのにもいつもより苦労を重ねなければいけなくなっている。
でも、今これをしておかないと、
休んでからでは何がこの話の中で最重要だったのかを忘れてしまう。
それではまた同じことを繰り返してしまうから、今やる他にないんだ。
或いはもっと別に同じ成果を得られる行為があれば、見つけることができたら、
そうし次第、その方法に切り替えていきたい。
【本質】
自分がAとBという行動をしたい日があったとして。
その両方をしようと一日を始めて、Aを終え、Bに移る際には
何らかの判断材料に基づいてそうしている訳だが(誰でもある程度はそうだろう)、それが今、時間帯や疲労感を理由としてそうすることが
殆ど、全く、出来ないでいる。
区切りの良い場面か、やり遂げた達成感を得たか、である場合が多い。
事前に睡眠薬を服用していても、
その強烈な眠気を押してでもやってしまうことすらあり得る(あった)。
それでも、AとBとそのどちらがその日自分にとってより大事であるのかの
取捨選択をした上で時間を過ごしている訳なのだが、
その選択を誤ったと感じ、自責の念に苛まれることになると、その後、
例えばAをした末に具合が悪くなると、当初予定していたスケジュールに
具合が悪くなることが含まれていなかったせいで、Bに使える筈だった時間が
どんどん失われていってしまう、そしてそれを悲観してしまう、
「Aという選択に甘んじた」、「AからBに移るまでの時間が遅すぎた(※これは、具合が悪くなったことによってではなくて、Aを予定より延長して行ってしまったことに対する気持ち)」、そういう波が押し寄せてきて止まらなくなり、
丁度今みたいに無味乾燥の境地となって、途方に暮れてしまうのだ。
【そういう自分へのフォロー】
でも、前述の失敗というのは、
「このケースでAをやるのは初めてなんだし、やってみても良いよな?」
という判断の後に起こることで、それを選択したこと自体甘えではないし、
やってみなければ分からなかったことだ。
俺が真に繰り返していて抜け出せないことというのは、
時間や健康状態で物を切り上げられない、健康の基盤を作り上げるのに
異常な程の困難を感じてしまう、ということ。
それは服用している薬だけで、薬を処方する医師との会話だけで、
何よりも、自分一人だけの力ででは中々解決することの出来ないこと。
だから少なくとも現状では、この繰り返しに何度遭遇することがあっても、
その時には打ちのめされるとして、
尾を引くような気持ちに自らを仕向けていく必要は全くない。
この間のエントリーにも書いたように、
それは殊更に自分を石のように動けなくさせてしまうことでしかないから。
それだけは経験で学んだから。
【対処】
カウンセリングが再び受けられるようになるまでは、とにかく、
こうして具合が悪くなるに至った行動自体の名前とその雑感とを
このエントリーに随時書き留め(※実行へと至った経緯は要らない)、
再びそれをしたくなった時にはここに挙げたことを
「これで自分が(そのことから得られる)一日分の満足をしようとしたなら
〈かなり〉の時間が掛かる」と省みて、
「だから、これを本当に行動に移すとしたら、
それだけの余裕を持って過ごせる、とある一日であるべきだ。
―――今日はそうだろうか?」
と、一度立ち止まって考えてみること。また、ここで重要なのが、
その行動が例え「息抜きの代替行為であったとしても」同様であること。
「疲れているから」ということで、その鬱憤が晴れると信じて遊んでみても、
その遊びへの満足度が低ければ低いほど、
その鬱憤が晴れると信じて遊び続ける時間が長引き、エネルギーが浪費され、
結果、本来その後にしたかった大切なことが出来ないまま
夜が更けてしまった、と、悪い方へ感じ入っていく。
つまりその行動は、如何にも息抜きのように見えるのにも関わらず、
自分にとっては(十分には)そう機能していない可能性があるのだ。
※以下、具合が悪くなるに至った行動のメモ(最終更新日:2017.6.12)※
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